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石部館(いしべだて) 所在地会津若松市一箕町八幡 別称 築城年不明 築城者石部氏 城主変遷蘆名氏[石部氏]… 廃城年不明 現状耕作地(石部桜) 概要 石部館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏の家臣石部(石塚)氏の居館である。 歴史 黒川城主蘆名氏家臣石部治部大輔某の居館。石部氏は後に石塚氏を称し、「新編会津風土記」に大塚山城主として名が見られる。 遺構は残っていないが、石部氏が館の庭に植えたと伝わる桜が、会津五桜の一石部桜として市の天然記念物に指定されている。 現状・感想 「さくら」ながら桜に疎いわたしも、石部桜は近所でしたので何度か見ています。通勤の時間帯はバスが邪魔でしょうがなかったですが(笑)。ちなみに五桜は、ほかに虎の尾桜(会津美里町(高田)法用寺)、薄墨桜(同伊佐須美神社)、糸桜(会津坂下町杉村薬師堂)、大鹿桜(猪苗代町磐椅神社)があります。これ以上に見応えのある桜はたくさんあるような気がしますが、五桜とされているのはこの五つです。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
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高館(たかだて) 所在地会津若松市河東町(旧河沼郡河東町)熊野堂字高館 別称熊野堂村館 築城年康平五年(1062) 築城者大宅光房 城主変遷源氏[大宅氏]-慧日寺[斎藤氏]-蘆名氏[佐瀬氏] 廃城年不明 現状宅地、耕作地、県道69号線 概要 高館は福島県会津若松市(旧河沼郡河東町)に所在した城館跡である。 歴史 康平五年(1062)源義家家臣大宅光房が築き、その後磐梯山慧日寺代官斎藤大蔵少輔俊長が居住、更に天正年間(1573-92)には蘆名氏家臣佐瀬平左衛門盛光が400石を以て居住したとされる。 土塁、濠が巡らされた複郭式の平地館であったとされ、本丸跡は東西20間、南北18間、二の丸跡は東西25間、南北23間であったと伝えられている。 現状・感想 現在は県道69号会津若松-北山線が館跡の中央を南北に貫いています。さらに館跡の土が付近の学校の校庭土盛に用いられ、昭和49年に全く姿を消しています。 熊野堂館と並んで所在しており、県道沿のハローショップ脇に館跡碑が建てられています。周囲は宅地化されており、館跡っぽい地形は散見出来ますが、さすがに見てまわれません…。しかし、昨年末仕事で対応させて頂いたお客様がこの直ぐ近くにお住まいの方でした。このチャンスは活かさねばなりませんね(^-^)♪ 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
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神明神社 福島県会津若松市に鎮座する神明神社の御朱印です。 ★住所 福島県会津若松市中町1-46 -
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小館(こだて) 所在地会津若松市本町 別称古館、西館、西黒川館 築城年弘和二年(永徳二・1382) 築城者蘆名直盛 城主変遷蘆名氏(1382…)-伊達氏(1589-90)… 廃城年不明 現状古館山稲荷神社、市街地 概要 小館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏が一時居館したと伝えられている。 歴史 天授五年(康暦元・1379)会津へ下向した蘆名氏7代直盛は、始め飯寺館(幕内館?)に居住したのち、弘和二年(永徳二・1382)この地に館を築いて移り住んだという。そしてさらに2年後の元中元年(至徳元・1384)、新たに築いた東黒川館(小高木館、のちの黒川城)へ移った。そのためこの館を西黒川館ともいう。直盛が東黒川館に移ったのちは、この地は融通寺に与えられた。 天正十七年(1589)摺上原合戦で蘆名氏を滅ぼした伊達政宗は、米沢城から黒川城へ本拠を移し、母保春院(義姫)を呼び寄せてこの地に住まわせた。政宗はさらに関東進出の野望を持っていたが、西国では豊臣秀吉による天下統一が着々と進んでおり、翌十八年には北條氏の拠る小田原城攻撃に参陣するよう度々催促を受けていた。しかし北條氏との誼もあり、政宗は去就を決めかねていた。家中も二つに割れ、もはや時期を逸したとして、政宗を殺害したのち弟小次郎を擁立、政宗の首を土産に伊達氏の安泰を図るべきとする重臣もあった。そのような状況の中で政宗は母から夕食の招きを受けたが、母は小次郎擁立を図り食事に毒を盛ったのである。しかし死には至らず、九死に一生を得た政宗は、実弟小次郎を自ら刺し殺して後顧の憂いを断ち、小田原への参陣を果たした。母はその後実家である最上領へ去った。 そのような経緯で小田原参陣を果たした政宗だったが、秀吉の惣無事令(死闘禁止令)違反、遅参を理由に会津領は召し上げとなり、蒲生氏郷へ与えられることとなった。氏郷は黒川を若松と改めて城下を整備、この地にあった融通寺を他所に移して新たに城安寺(現在は廃寺)を興した。 現状・感想 融通寺は現在も市内大町にありますが、現在本町となっているこの地の旧町名は融通寺町といいます。本町商店街の呉服屋さんの裏に小館山稲荷神社があり、この神社は古館が築かれた際に東端に造営された由緒ある神社だそうです。市街地化されていて全く面影はないですけどね。しかし政宗の毒殺未遂事件が起こった地と考えると、なかなかの感慨がありますなー。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧 伊達氏の城館一覧
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鈴木屋敷(すずきやしき) 所在地会津若松市町北町上荒久田字鈴木 別称 築城年不明 築城者鈴木氏か 城主変遷鈴木氏… 廃城年不明 現状宅地、耕作地 概要 鈴木屋敷は福島県会津若松市に所在した城館(在家屋敷)跡であり、鈴木氏が居住したという。 歴史 「新編会津風土記」に記載があり、何時の頃か鈴木五郎大信なる人物が居住したことから鈴木屋敷と称されたという。東西二十三間、南北二十一間の規模であったという。 現状・感想 まほろん「文化財データベース」の位置情報を基に訪問。菅原神社の南側がその跡であるとすれば、現在は宅地に挟まれた水田地が該当する筈ですが、「会津若松市埋蔵文化財分布調査報告書」の示す場所とは若干異なります。しかし何れにしても耕作地か宅地、遺構は期待出来ないでしょうorz なお「会津若松市~」には在家屋敷跡とあります。 関連項目 福島県の城館一覧
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若松城(わかまつじょう) 所在地会津若松市追手町 別称鶴ヶ城、黒川城、東黒川館、小高木館、小田垣城、小田山城 築城年元中元年(至徳元・1384) 築城者蘆名直盛 城主変遷蘆名氏(1384-1589)-伊達氏(1589-90)-蒲生氏(1590-98)-上杉氏(1598-1601)-蒲生氏(2代・1601-1627)-加藤氏(2代・1627-1643)-保科・会津松平氏(10代・1643-1868) 廃城年存城 現状鶴ヶ城公園、公共施設 概要 若松城は福島県会津若松市に所在し、会津若松城、鶴ヶ城として一般に良く知られる城館である。室町時代、蘆名氏の築城以降会津盆地の中心城館となり、歴代の会津領主によって徐々に規模が拡大され、江戸時代には会津藩松平氏の府城となった。幕末期、戊辰戦争における籠城戦は有名である。国指定史跡、日本100名城の一。 歴史 文治五年(1189)奥州合戦の功で会津四郡の地頭職を賜ったのは三浦氏一族の佐原十郎左衛門尉義連であったとされ、その後義連の7代孫蘆名直盛が、天授五年(康暦元・1379)当地に初めて下向して幕内館(飯寺館か)に入り、弘和二年(永徳二・1382)に小館へ、さらに元中元年(至徳元・1384)若松城の前身である東黒川館に移ったのが始まりであると一般的に考えられている。しかし創建時期は明確でなく、初めて記録に現れるのは長禄四年(1460)「おたかきのたて」(小高木館)としてである。このように記録に現れる初期の名称もいくつかあり、その中には小田山城を指すと思われる記録も混ざっているが、蘆名氏15代盛舜(モリキヨ)の代の天文七年(1538)に焼失、同十二年に大規模な修築を受けたのちは、主に黒川城と呼ばれるようになったという。 蘆名氏は16代修理太夫盛氏の時代に最盛期を迎え、会津を中心に東は安達、岩瀬、白河郡、西は蒲原郡まで勢力を拡大、米沢城の伊達氏と並んで東北を代表する戦国大名となった。しかし盛氏ののちは当主が次々と命を落とすなどの不幸が相次ぎ、また家臣団の分裂・叛乱などで勢力は衰えた。重臣たちは同盟関係にあった佐竹氏から養子義広(佐竹義重次男)を迎え、その同盟を強化して伊達氏に対抗したが、遂に天正十七年(1589)義広が磐梯山麓摺上原合戦で伊達政宗に敗れ、鎌倉時代以来の名族蘆名氏は20代で滅亡した。 黒川城に入った政宗は、この城を足掛かりにさらに関東進出を図るが、中央では豊臣秀吉の統一事業がほぼ完成されていた。政宗は秀吉の命に抗しきれず小田原へ参陣、家名を保つことは出来たが、翌十八年に会津のほか信夫、安達地方を没収され、わずか一年で会津を去った。 会津は奥羽の諸大名を抑える重要な拠点であったため、秀吉は信任の厚い蒲生氏郷を会津に配置したが、それは器量の優れた氏郷を政権の中枢から遠ざけるためであったともいわれる。氏郷自身、92万石の大身となりながら、小身でも機内に留まれば天下を望むこともできたであろうに、と漏らしたと伝えられている。しかし氏郷は、黒川城および城下を整備し、地名を故郷にちなんで若松と改め、現在の会津若松市の基礎を築いた。なお氏郷が築いた天守は7層であったと云われるが、真偽は定かでない。 文禄四年(1595)氏郷が死去し嫡男秀行が跡を継ぐが、若年であることを理由に慶長三年(1598)下野国宇都宮城へ移封となり、越後国春日山城より上杉景勝が120万石の大身で入城した。しかし慶長五年(1600)神指城の築城などを理由に徳川家康が上杉征伐の軍を動かし、これをきっかけに関ヶ原の戦いが始まると、景勝は豊臣方に与したため米沢30万石に国替となる。 翌慶長六年(1601)東軍に与した功で蒲生秀行が再び会津領主となるが、寛永四年(1627)忠郷が嗣子がないまま死亡したため蒲生氏は伊予国松山城へ転封、替わって松山より加藤嘉明が入封した。寛永十六年(1639)その跡を継いだ明成は若松城の大改修に着手し、現在の姿である5層の天守を築くが、寛永二十年(1643)家臣との諍いを理由に幕府へ所領を返上した。 その後山形城より保科正之が入封したが、正之は2代将軍徳川秀忠の庶子で、信州高遠藩保科氏に養子に入っていた。3代将軍家光は異母弟である正之を厚く遇し、正之も幕政に参画して大いにその手腕を発揮した。そして保科氏は、3代正容から松平姓と葵紋の使用を許され、以後明治維新まで御三家に次ぐ家柄として会津藩23万石を治めた。 明治元年(1868)戊辰戦争が始まると、会津藩は西軍の討伐対象となり城下で激しい戦闘が続いた。物量に勝る西軍を相手に、無勢ながら籠城して激しく抵抗したが、弱点である小田山からの一日3千発ともいわれる激しい砲撃に屈して降伏、開城した。そして同七年(1874)城の建造物はことごとく取り壊された。 現状・感想 現在は鶴ヶ城公園となり、加藤氏時代の5層天守や東走長屋、鉄門、そして近年南走長屋と干飯櫓が復元されています。本丸と帯曲輪、そして本来馬出しであった西出丸と北出丸の総石垣が残り、寂れたテニスコートのある二の丸や県立博物館のある三の丸には土塁が残っています。城の規模は蘆名氏時代の東黒川館からあまり変わっていないそうです。また若松市内には甲賀町郭門の石垣や、天寧寺町(現花春町)の土塁などが点在し、新選組の斉藤一(藤田五郎)の墓所として知られる阿弥陀寺には御三階が移築されています。 ちょっと昔の方にお話を伺うと、本丸に競輪場があった頃の話や、天守復元前の天守台石垣で遊んだなどという話が聞けてなかなか楽しいです。子どもの頃には家の近くに外堀跡が残っていたなどという話もありましたよー。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧 伊達氏の城館一覧 蒲生氏の城館一覧 上杉(長尾)氏の城館一覧 幕藩体制下(江戸時代)の藩庁一覧 日本100名城
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横沼館(よこぬまだて) 所在地会津若松市神指町横沼 別称 築城年不明 築城者柴山氏か 城主変遷柴山氏… 廃城年不明 現状宅地 概要 横沼館は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 「会津古塁記」に、柴山民部が居住したとある。会津若松市の郷土史家石田明夫氏によると土塁が遺るという。 現状・感想 まほろん「福島県文化財データベース」の位置情報を参考に訪問も、明確な位置を特定出来ませんでした。集落内に土塁が遺っているのでしょうが、さすがに民家敷地などをジロジロ見て回る訳にも参りません…。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
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会津若松(広田)郵便局 郵便番号:〒969-34 集配地域:会津若松(あいづわかまつ)市の旧・河沼(かわぬま)郡河東(かわひがし)町域。 1.jpg (福島県)広田郵便局局舎 2.jpg (福島県)広田郵便局取集時刻掲示 達成状況[20**年*月**日現在] 普通のポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 コンビニポスト ●マッピング済**本。撤去**本。 ポスト考察 ●編集中 ポスト番号考察 ●編集中 設置傾向考察 ●編集中 取集時刻考察 ●編集中 取集ルート考察 ●編集中 時刻などの掲示 ●編集中
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平塚館(ひらつかだて) 所在地会津若松市高野町平塚 別称 築城年不明 築城者平塚氏か 城主変遷平塚氏… 廃城年不明 現状民家 概要 平塚館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、平塚氏が居住したという。 歴史 「新編会津風土記」に平塚氏が居住とあり、館主として平塚五郎左衛門の名が見られる。 現状・感想 以前の職場にいた頃、外出して戻る際に偶然土塁を発見、その後休日に改めて訪問しました。春日部様というお宅なのですが、丁度奥様が出て来られたのでお話を伺ったところやっぱり館跡、所謂「おやかっつぁま」とのことでした。館の由来については詳しくお伺い出来ませんでしたが、埼玉県春日部市からも調査に訪れた、などとおっしゃっていましたので、彼の地に何やら関係があるのでしょうか?(←いいかげん) その後、会津若松市の郷土史家である石田明夫氏と知り合う機会を得、お話を伺うと平塚集落にお住まいとのこと。石田氏は平塚氏の家臣だったそうです。今度機会があったらもうちょっと詳しくお伺いしてみようっと。 関連項目 福島県の城館一覧
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面川館(おもがわだて) 所在地会津若松市門田町面川 別称 築城年治安元年(1021) 築城者永井行広 城主変遷永井氏…松本氏…佐瀬氏… 廃城年不明 現状企業敷地 概要 面川館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、年代は不詳ながら永井氏、松本氏、佐瀬氏らが居住したという。 歴史 治安元年(1021)永井淡路行広が築城し、その後松本源兵衛安石が居住したと『会津古塁記』にあり、また『新編会津風土記』には佐瀬将監の居館とある。東西二十間、南北二十五間の規模であったという。 現状・感想 現在は宮崎電線の工場敷地となっており、西側に土塁跡が見られます。なお工場が建設される以前は周囲に土塁、堀が確認出来たそうです。 関連項目 福島県の城館一覧